歴ドル、小日向えりが体験した、岩櫃の魅力とは?
6年前から真田ゆかりの地を訪ね歩き、その集大成としての著書「いざ、真田の聖地へ」(主婦と生活社)を出版した歴史アイドルの小日向えりさん。
アイドルとしてのかわいらしい一面だけではなく、書籍を出版するほどの真田好き、歴史好きが支持され、近年活躍の場を広げています。
このページでは、そんな小日向さんの岩櫃訪問記&真田への熱い想いをご紹介します。読めばきっと真田の、彼女の虜になること間違いなし!
小日向えり、岩櫃を語る
「vol.02 岩櫃訪問紀」
「真田丸」の物語は武田家滅亡から始まり、さっそく岩櫃城がキーとして登場します。
長篠の戦い敗戦以降、武田の勢いにかげりが見えたことで、次々と寝返りが現れ、武田家は弱体化していきます。勝頼はついには義理の弟(妹の旦那・木曽義昌)にまで裏切られる始末。これ以上戦うことができなくなった武田家は、織田・徳川軍から逃れるため新府城で軍議を開きます。
真田昌幸の岩櫃城(いわびつじょう)か、小山田信茂の岩殿城(いわどのじょう)、どちらに逃げるのが得策か?
昌幸が必死に岩櫃城を勧めるなか、勝頼苦渋の決断の末、選ばれたのは岩殿城でした。
勝頼は新府城に火をつけて、山梨県大月市の岩殿城へ逃亡します。しかし、悲しいかな勝頼は結局小山田にも裏切られてしまい、天目山で自刃に至るわけです。
歴史にifはありませんが、真田ファンとしてはこのとき「もし岩櫃城に逃げていたら…」と考えずにいられません。
岩櫃城は群馬県吾妻郡東吾妻町にある山城です。武田家の拠点となった岩櫃城。真田幸隆公が得意の内部工作で切り崩し、上田城築城以前の真田氏の本城となったお城。信幸・信繁兄弟が幼少時代を過ごした場所と言われています。
いざ、岩櫃城へ!
ところで、真田党の方には、池波正太郎さんの「真田太平記」の小説やドラマから真田ファンになったという方が多いのではないでしょうか。私もそのくち。
「真田太平記」で昌幸の秘密のあの「地炉ノ間」がある場所が岩櫃城なんですよ。
そんなわけで、前から行ってみたかった岩櫃城、お友達が行きたいというので3年ほど前一緒に城攻めすることにしました!
岩櫃城は吾妻川の北岸に聳える標高802.6mの岩櫃山、中腹の標高594m付近に築かれています。お城といえば天守閣を思い浮かべるという方は驚きかもしれませんが、山城を訪ねるというのはほぼ山登りとイコールなんです。
史跡巡りなら中腹まででもいいのですが、せっかくなら山の頂きまで! と、私は初の岩櫃城攻めに意気込みました。
噂によると、岩櫃山の山頂は足元に岩場が連なる険しい山。登山にも人気の山なのですが、過去に何度か滑落死している登山客がいるそうなのです。そこで、今東吾妻町の地域起こし「あざみの会」のボランティアガイドのもと、登山することにしました。
東吾妻町に到着し、まずは岩櫃城が正面から見えるスポットまで車を飛ばして、写真撮影。
山というよりも、大きな岩! 見るからに断崖絶壁です。岩櫃山の名前の由来は源頼朝が浅間に狩りに行く途中、この山を見て、「お櫃に似ている」と言ったからだそうです。頼朝さん、お腹すいてたのかな…。
いよいよ城攻め。正面口からのぼっていって15分くらいで、本丸跡はなんなくクリアです。そのあと「竪堀」や「堀切」「腰曲輪」などの遺構をチェックしました。
登山口から本丸にかけても、空堀や土塁の遺構が残っているので登りながらよく地形を見ていきます。
本丸の一角に「居館 御殿跡」がありました。ここが地炉の間!
この辺りで小さい頃の信幸、信繁が駆けまわっていたのかと想像すると感慨深いものがあります。400年の時を超えて、同じ空気を吸っている喜びを感じながら大きく深呼吸しました。
その後は山頂を目指してひた登ります。途中、鎖を頼りに大きな岩をよじ登ったり、野生のカモシカと遭遇するなど気分はまるで冒険家。
9合目から山頂までは1番危険なゾーンです。鎖をつかみながら、険しい岩をよじ登りました。ちょっと足を踏み外したら真っ逆さま、という迫力。危ないので、ここはカメラは手放します。
山頂に到着
ついに山頂に到着です!
眼下には東吾妻町や中之条町の市街地、目の前には上州の山々が広がります。晴れていたでの、遠く富士山も望めました。
「幸隆公、昌幸公もこの景色を見たんだろうか」と思いながら眺めました。