大河ドラマ真田丸の地、岩櫃(いわびつ)
「勝頼様は来なかったけど、
あなたは来てくれますか?
来てくれた方を、お護りします!」
真田の進言と、武田氏の滅亡
戦国のトップ企業「甲斐・武田氏」、外様でありながら実力でその重役に列した子会社「真田氏」—。織田・徳川連合軍の甲州征伐で窮地に陥った武田勝頼に真田昌幸は、「岩櫃への撤退」を進言。「守り通す」ことを約束した。しかし、結局、勝頼は、譜代重臣の別の進言を受け入れて裏切りに遭い、超トップ企業・武田はあっけなく滅亡した。
天険の山城、岩櫃城
岩櫃城は、天険の山城。のちに真田昌幸・信繁が徳川家康を恐れさせた上田城や大坂城「真田丸」の原型といえる堅城。もし、勝頼が逃げて来たら、真田は織田・徳川連合軍を散々に苦しめたことだろう。3カ月後には本能寺の変で信長は破れ、武田・真田・岩櫃、そして日本の歴史は大きく変わっていた―。
岩櫃をめぐる旅
上州・東吾妻町の「岩櫃」。古来より修験文化と一体となったパワースポットでありながら、四季折々の美しい表情に包まれる。山の中、林の木立、青い空に、大いなる歴史ロマン、戦国の息吹が木霊する。NHK大河ドラマ「真田丸」のシーンを思い出しながら歩けば、信繁様と心と心が響き合う。そんな予感めいた岩櫃。あなたは来て下さい。
岩櫃と真田の歴史
-
????
「岩櫃城」築城。
築城年および築城主は不詳。
この地を鎌倉時代に治めた吾妻太郎助亮によって築城されたと伝わるが、伝説の域を出ない。 -
1563年(永緑6)
真田勢の攻勢により岩櫃城が落城。
信繁の祖父にあたる幸隆が吾妻郡守護代となる。
-
1567年(永緑10)
信繁、昌幸の次男として生まれる。
-
1575年(天正3)
長篠の戦い。
父・昌幸の兄二人が戦死し、昌幸が真田家を継ぐことになる。
-
1582年(天正10)
《2月》昌幸、岩櫃山南面に、武田勝頼を迎えるための御殿(現在の「潜龍院跡」)を作るが、勝頼が吾妻の地に来ることはなかった。
《3月》武田勝頼が甲斐の天目山にて自刃。武田氏が滅亡。昌幸、織田信長に臣従
《6月》本能寺の変。織田信長死去。
《10月》昌幸、徳川家康に従属。徳川家と北条家が和睦。条件として、真田家の沼田領は北条家に引き渡される。
-
1583年(天正11)
昌幸、上田城の築城を始める。
-
1584年(天正12)
昌幸、家康から沼田城を北条氏政へ引き渡すよう求められるが拒否。
-
1585年(天正13)
昌幸、家康と決裂し再び上杉家に臣従。信繁、人質として上杉家へ。
昌幸、家康軍を上田城で撃退(第一次上田合戦)。 -
1587年(天正15)
昌幸、上洛し秀吉に正式に臣従。秀吉の命で、再び家康の配下となる。
この頃、兄・信幸が本多忠勝の娘・小松姫を妻にする。 -
1589年(天正17)
秀吉の裁定により真田領となった沼田の名胡桃城を、北条勢が攻略。秀吉は激怒し小田原出兵を宣言。
-
1590年(天正18)
小田原・北条攻め。真田家も出陣。
《8月》信幸が沼田城の初代城主となる。諸社に寄進し、岩櫃城を除く吾妻郡の城と砦を破脚。
-
1600年(慶長5)
下野国犬伏にて真田家の去就を協議。
信繁と昌幸は西軍に、信幸は東軍に残る(犬伏の別れ)。
信繁と昌幸は、上田城にて、関ケ原へ向かう徳川秀忠軍を翻弄する(第二次上田合戦)。関ケ原の戦いで東軍勝利。
西軍についた信繁と昌幸は、高野山のふもと九度山に配流される。
東軍についた信幸は沼田・上田を領する。 -
1611年(慶長16)
昌幸、九度山で死去。
-
1614年(慶長19)
信繁、豊臣秀頼からの依頼に応じ、九度山を出て大阪城入場。
「大阪冬の陣」にて真田丸を築き、徳川方の攻めを防ぐ。同じ頃、信幸が吾妻郡に郷村改を出す。岩櫃城下平川戸宿で市が開かれ、大いに賑わう。
-
1615年(慶長20)
大阪夏の陣。信繁、戦死(享年49)。
同年頃、徳川家康による「一国一城令」に伴い岩櫃城破脚。
信幸は城下町を現在の原町に移した。