歴史観光スポット

潜龍院跡

武田の命運を握った幻の城館

織田・徳川連合軍による甲州征伐時、真田昌幸様が主君・武田勝頼公に退却を進め、名門武田の家運を挽回しようとしたのが「岩櫃城」。結果、勝頼公は岩櫃には入らず、天目山で自害してしまうが、昌幸様が勝頼公を迎えるために3日間で建てたといわれる館城が、古谷御殿。そこに潜龍院(せんりゅういん)という寺があったため、この地を「潜龍院跡」と呼んでいる(東吾妻町郷原古谷地区)。絶壁の岩櫃山の眼下に開けた不思議な空間で、山の中に開けた庭園のよう。さしづめ、真田のマチュピチュ。岩櫃山を外から見ている限りはその空間の存在など想像することはできない。入口手前20メートルに近づいても、木立のベールに包まれている。しかし、そこに足を踏み入れるや、一瞬にして現代社会とは隔絶され、訪れる者の魂は、パッと戦国の世へと飛んで行ってしまう。真田氏が築いた特徴を持つ石垣が残り、その上に館城があったことが容易にイメージされる。

潜龍院跡の石垣

潜龍院も岩櫃城の一角

東に郷原城、西は狭く大人数でまとめて侵入できない入口。南は土塁と急斜面。北はもちろん岩櫃山の大絶壁。いったん敵兵がなだれ込もうとすれば、勝頼公は郷原城へ引き、スルスルッと岩櫃城本丸へと逃げ込むことができる。そしてこの空間に閉じ込められた敵軍は頭上(岩櫃山)からの一斉射撃で、文字通りに「シラミつぶし」。空間には巨大な岩も転がっていて、岩櫃山の自然落石なのか、戦国の世の攻防による岩石落としなのかは分からないが、いずれにしても、頭上からの攻撃は、まさに鉄槌と呼べるものだったに違いない。岩櫃山の岩陰は猛禽類が住処としていて、潜龍院をウロウロするわれわれは彼らから常時監視状態で睨みつけられている。これが日本一の兵(ひのもといちのつはもの)からのロックオンだったらと思うと、ゾゾッと身も凍る。

歴史の檜舞台に上がることなく…

しかしながら、この御殿は幸か不幸か、実際の戦いには使われることなく、役目を終えたと思われる。古谷御殿の跡地は、昌幸の麾下・祢津潜竜斎昌月なる人物がもらい受け、山伏寺としたという。それが、この地の現在の通称「潜龍院」のもと。この寺は、岩櫃城が破却されてから67年後(1682年)、岩櫃山の大火の時に炎上した。その後再建されたが、明治2年の修験寺廃止令で廃された。江戸時代には修験寺は寺子屋としての役割を担っており、中でもこの潜龍院は格式が高かったと言われている。護摩堂は明治17年に東吾妻町原町の顕徳寺に移された。現在の顕徳寺はその後改築されているが、潜龍院当時の面影は残されているとされる。

顕徳寺(潜龍院の移築先)顕徳寺(潜龍院の移築先)

夏草や 兵どもが 夢のあと

ここは四季折々の楽しみ方がある。5月の新緑と青い空、9月の彼岸花とうろこ雲、湿った雪が朝露とともに氷輝く360度の冬化粧…。そして夏の夕暮れなどは、「夏草や兵どもが夢のあと」の句が心に響いてくる。大坂夏の陣の幸村様の激闘を目に浮かべて、その無事を願う岩櫃城の人々の心を想う晩夏は、胸の前で思わず手をあわせる。四季それぞれの潜龍院のたたずまいを、岩櫃山の大迫力というメーンディッシュに付けあわせる。ほかに何があるわけではないが、心のなかに得がたいひと時が広がる。JR吾妻線「郷原駅」から歩いて20分。自動車は古谷地区の登山者駐車場をご利用下さい。